仕事を辞めた。引っ越した。5年つきあった彼氏と別れた。しかし、東京の冬は寒いので、新しい彼氏はすぐできた。
2か月くらいの間にあらゆることが起こってしまった。そのきっかけは、脳内の意地悪かつ偉い人がこう言ったからだ。
「発表します!山本さんは、まず効率が悪い。集中力がない。忘れ物も多い。頼まれたことも十分にできないし、誤字も多い。しかも、服装もダサい。愛嬌もない。受け答えもとんちんかん。他人の気持ちも全然わからない。自分のことが好きすぎる。そんなんじゃ社会で通用しませーん」
この人は、時々このような通達をしてくる。いつもは、笑って受け流していたのだけど、折しもダイエット中で体力がなかったので真に受けた。突然、不安がむくむくとわいてきて、不安になる私の心の弱さにもっと不安になり、こんな脆弱さなら私は社会にいられるパスポートをもっていないんじゃないか、と実在しない証明書を妄想し、またまた不安になった。
不安をエンジンとして動くとろくなことは無いらしく、環境を変えて自分を追い詰める方に向かっていった。その結果、会社を辞め、恋人と別れることになったのだけど、当然ながら、それはより不安な状態を招いた。合理的な個人には程遠いようだ。
というわけで、朝起きると、知らない人が隣に寝ていた。驚いて、新しい彼氏だったことに気が付いた。気がつけば仕事も辞めているし、家も引きはらい、新しい彼氏の家に転がり込んでいる。困った困った。と、頭を抱えた。
だいたい、彼氏(以下、金平糖さん)には4回しかあったことのないはずなのに、いったいどういうことなんだろう。馴れ初めを思い出そうとも、はじめて会った忘年会会場で食べたカツカレーだけが思い出される。大きいのが取り柄のカツカレーだった。目玉焼きが大量に乗っていた。
そういえば、私は会って2回目くらいのころ、「たぶん戦争が起こって仮に徴兵されることがあれば、食糧係に配属されると思います。そして、爆弾の降り注ぐ中を、みんなが甘いものを欲しているんだと急に思い込んで、金平糖をもって走って、すぐ打たれて死ぬ」というようなことを金平糖さんの印象として言った。「ああ、よく俺のことをわかってるね」と金平糖さんは笑った。それくらいの間柄だ。
金平糖さんは、朝の8時に起きて、朝ドラを見るようだった。7時50分に目覚ましがなり、7時55分にテレビが自動につく設定だ。こちらからは金平糖さんの背中で朝ドラは見ることができない。主人公が銀行設立のために頑張っていることが伝わる。恐る恐る近付いて首の後ろのにおいをかいでみると、悪い人ではなさそうな気がした。布団もふかふかなので気に入った。
朝ドラが終わったのを見計らい、「驚きました。あんまり知らない人が隣に寝ていて」と私は背中から声をかけた。「そうなの?」と金平糖さんは驚いた声を出した。おぼろげな記憶から引っ張り出すに、私は相当強引にここに転がり込んだはずだ。「我に返ったというか。いやぁ、ご迷惑をおかけして」と私はとりあえず謝った。そういえば、転がり込んだ初日に泥酔して、夜中このベッドに嘔吐したことを思い出し、顔が赤くなった。思い当たる節のあるような苦笑いを金平糖さんはして、まぁ、面白いからいいよ、と適当なことを言った。
金平糖さんはシャキッと布団から立ち上がった。見渡すと私の荷物が整頓されている。整頓から程遠い生活を送っていたので、感動する。部屋には時計が6つと、ラジオが5つあった。ぼんやりしていると、ちゃんと袋に書いてあるとおりの時間分蒸らした紅茶を入れてくれた。紅茶をすすりながら、なんかすいませんねぇ、とまた私は謝った。まぁ、ちょっとずつ慣れればいいよ、と金平糖さんは言い、やはり、この人は世の中の面倒を背負い込み、なかなか幸せになれないタイプなのだなぁと悟った。
その日、出社すると、「おまえ、フリーで本当にやっていけるのか」と社長が心配そうに声をかけたので、ここぞとばかりに、「いやー、なかなか大変そうで」と話を切り出した。辞めるのではなく、勤務時間と給料を減らし、その分ほかの仕事を入れるような契約に変更することになった。「安心したよ、意外と堅実で。もっとめちゃくちゃなのかと思った」と、社長は安心と残念の半分みたいなことを言い、「いやいや、ご迷惑をおかけして」と、のそのそ頭を掻きながら私は謝った。入社以来ずっと書き続けている編集後記の枠も残してくれた。
友人たちも心配してくれ、280円のビールや180円の日本酒を飲みに誘ってくれた。5年付き合った恋人と別れたことをいたわってくれたけど、私にすぐに新しい恋人ができたのを知ると、「アンパンマンの顔かよ!」と罵った。まぁ、でも、別れたらギャーギャー言う権利はあるよ、新しい恋人ができようができまいが。と、結局はみんな倫理を超えて、私を甘やかしてくれたので、私も存分に甘えた。
とはいえ、嫌なこともあった。金平糖さんには昔付き合っていた彼女がいて、「山本さんは前の彼女に永遠に勝てないよ」と過去の二人を知る人物から意地悪なことを言われたのだった。そういわれると、私も気になったりして、その会ったことのない元の彼女のブログなどを検索し、拝読し、「どっちが面白いと思っているんだ」と金平糖さんに迫ったりした。
友人に相談すると、こういう時はご飯をたくさん食べて運動するしかない、と教えてくれた。毎日ごはんをたらふく食べ、ラジオ体操をすると、どんどん健康になり、人をねたむ気持ちも無くなっていった。今は健康のために、乳酸菌飲料やシソジュースを飲んでいる。一袋3000円もする怪しいオリゴ糖も購入した。前の彼女のブログも、ああ、素敵な文章を書く人なんだなぁと冷静に受け止められるようになった。
そうこうしているうちに、私はすっかり周囲の状況になじみ始めた。人間の適応能力は素晴らしい。周りの人たちのたぐいまれなる優しさがあってこそだ。そして、私の人徳があってこそ。
時々、別れた恋人を思い出す。彼は川の向こうにいて、私は一生懸命に手を振る。「おーい、なんか、ごめーん」。彼は、嫌な顔をして振り返り、「そうだよー、本当にそうだよー」と答える。「なんか、どうにか落ち着きそーう。心配かけてごめんねー」と私は言い、「一生恨むからねー」と彼は答え、大笑いする私をあきれた顔でみる。「人生は長いので、のんびりねー」彼は大きな声でそういって手を振り、くるりと後ろを振り返ってどこかに行ってしまう。
その言葉を胸に刻むために、川に落ちている石を拾う。黒くて、ごつごつしている石。手で形を確かめながら家に帰り、戸棚に大切にしまう。でも、次に戸棚を開けたときにはすっかり忘れているので、ゴミだと思って私はその石をベランダからほおり投げる。投げられた石は地面に転がり、子どもが蹴ったり、犬が咥えたり、カラスが餌だと間違えたりしているうちに角が削れ、粉々になって、風が吹き、舞い上がり、塵となって、世界に溶けてしまうに違いない。世界中がのんびりしだしたらたぶんそういうことだろう。
2016/03/06