贋札ユンタ

ニジヒコおじさんは神童だった。現在、ニセモノのお金をつくる工場で働いている。

といっても、悪いことをしているわけではない。先祖崇拝の沖縄では、年に二回、先祖にニセモノのお金を焼いて、おこづかいをあげたつもりになる。

戦前は紙に小判型のスタンプを押していた。戦後、祖父は会社を立ち上げ、米軍基地から毎日のように出される大量のちり紙を使い、ニセモノのお金を工場で生産するようになった。あまりにも小さな市場なので、本土企業が参入してくることもなかった。買収と合併をくりかえし、いまや独占企業だ。ニジヒコおじさんはその会社を継いでいる。沖縄県民が先祖におこづかいをあげるのに飽きないかぎり、くいっぱぐれることはない。ニセモノのお金、は黄土色のキッチンペーパーに、小銭の模様が等間隔に印刷されている。銭形平次が悪いヤツをやっつけるときに使うタイプの小銭だ。それを札束にして300円で売る。お金と呼ぶには頼りない。けれどはじめて紙幣を見た人も同じように思ったに違いない。お金は、信用を担保にどんどん抽象化されていく。

「この札束、天国のお金でいくらくらいなの?」 と幼い私はニジヒコおじさんによく聞いたものだ。
「そうね。だいたい500円くらいかなぁ」
毎年、500円だったり、1000円だったり、5000円だったりする。ニジヒコおじさんは、先祖のお金に無頓着のように思う。いや、それは凡人の考えで、天国との為替レートが変動しているのかもしれないし、神童だったおじさんは、そういうものを的確に把握している可能性もある。

ニセモノのお金の焼き方について、解説しよう。

お盆の最終日になると、親族はみな、正座をし、仏壇の前にすわる。ニジヒコおじさんは長男なので、一番前にすわる。親戚にはなんとなくの序列、がある。いつもうっすら感じている序列は、仏壇の前で顕著になる。私は次女の娘なので、一番端っこにすわる。女×女の最弱ペアーなのだ。私より年下でも、男兄弟の息子は、けっこう前の方にすわる。男×男は、かなり強い。祖母が方言でなにやらもごもごと唱える。聞き取れないので、呪文のようだ。もごもご。一方、先祖は方言じゃないと聞き取れないらしい。方言はもう、母の世代では聞き取れるが話せないし、私たちの世代では聞き取れないし話せない。小さい子どもがそれを真似して、大人たちの大爆笑をかっさらう。年に数回しかできない鉄板ネタだ。いやいや、みんな笑っているけどさ、私がおばぁになって、もごもご呪文の係になったら、何を言えばいいんだろう。早口の標準語でもごもご言うのが精いっぱいだ。私たちは先祖崇拝なのだから、先祖にいろんなお願いをかなえてもらわないといけない。標準語では意思疎通できずに、小遣いだけ取られるはめになったらどうしよう。そんなことを思っているうちに、ニセモノのお金を燃やす準備が整っていく。

ニセモノのお金を燃やすのは、長男であるニジヒコおじさんの仕事だ。銀色のはしでニセモノのお金をつまむ。隣には、ニジヒコおじさんの長男がひかえていて、お札を渡す手伝いをする。昔は祖父がやっていて、その隣にニジヒコおじさんが座っていた。燃やす枚数は決まっているような、決まっていないようなものだ。他の家のお盆は知らないが、うちは造幣局なわけだから、たぶん多めに燃やしている。

お金に火が放たれる。昔、人間は火を神様のように畏れた、というけれど、その気持ちがよくわかる。場は一気に神聖な感じになる。札束をだいたい燃やすと、みんなで手を合わせる。うーとーとー、と祈りの言葉を唱える。「これだけ燃やしたら車くらい買えるね」と誰かが言う。年に数回しかできない鉄板ネタだ。クラウンを乗り回しているご先祖様を想像し、またみんなでケラケラと笑う。そういったことを、年数回繰り返す。私たちは、天国に送金するために生まれ、子を残し、死んでいく。天国では左うちわで暮らす予定だ。

年に数回の、そういったイベントが終わると、親戚一同は酒盛りをして大騒ぎする。そういうのは、男の仕事だ。女たちは、席に座らない。だいたい台所で立っている。氷が足りないと言われると、氷を持って行き、冷えたビールを継続的に提供できるように工夫しなければならない。そして、これでもか、というほどてんぷらを揚げる。祖母を頂点とし、実に統率がとられている。男兄弟の嫁、女兄弟、男兄弟の娘、女兄弟の娘たちの立場を考えながら、仕事をやり過ぎず、でも誰かに仕事が集中してしまうことも避けなければいけない。下手すると、病人が出る。というか、毎年病人は出ている。祖母なんかは、イベント終了の翌日はベッドで伏せる。「疲れた、次は楽したい。まず手作り料理はやめる」と毎回宣言する。でも、慣性の法則は力強く、気が付いたら毎回大量のてんぷらを揚げるはめになる。なにも、台所にいるのが、最低最悪、というわけではない。揚げたてのゴーヤー天ぷらはとびきりおいしい。男たちに提供するまえに、女たちは「味見」と称しぺろりと食べる。私の母は「味見の女王」とよばれ、自分が揚げているときも、揚げていないときも、一番初めにできた料理に手を出す。

ニジヒコおじさんは大盛り上がりの宴会の中で、いつも上品に笑っている。まわりのおじさん達と比べ、色が白く、ぼおっとそこだけ光が差している気がする。外に出て、一人でタバコを吸っていることもある。暗闇の中でも、肌は白く光っている。「氷が足りないよ」と琉球ガラスで出来た氷バケツを持ってきて、頻繁に台所にやってくる。女たちは「味見の大王」としてニジヒコおじさんを扱う。味付けの最後にアドバイスを仰ぐのだ。実際、味覚はすごく研ぎ澄まされているし、ニジヒコおじさんが男の宴会に居づらそうなことをみんななんとなく知っているのだ。
「うーん、塩がたりないさ」
みたいなことをやっているうちに、私の父は琉球のニワトリと、薩摩のニワトリのモノマネを披露していた。両者の差異は、首の動かし方が違うだけなのだけど、すごく盛り上がっている。味見も終わり、氷のバケツはいっぱいに満たされたので、ニジヒコおじさんは男の世界に戻っていく。

天ぷらをだいたい揚げると、女たちは台所の椅子に座りながらご飯を食べたりおしゃべりをする。ニジヒコおじさんが神童だった話を聞いたのもそのタイミングだった。私は中学生くらいだったようにおもう。
「ニーニーはね、神童だったんだよ」
と氷をいっぱいにして宴会に戻るニジヒコおじさんの背中を見ながら、母が言った。
「そうそう、末は博士か大臣かとよく言われていたよ」
と祖母も続ける。
「えー、お父さんが?」
とニジヒコおじさんの娘(私の2つ下のいとこ)も笑って話に入ってきた。
「勉強も運動も、絵も上手だったよ。ほら、今もピアノが上手さ」
「でも、今は工場で働いているのはなんでー?」
「本当はパイロットになりたかったみたいなんだけど」
「色盲でダメになったわけ、中学2年のころに。ほら、あの視力検査でやるでしょ。あの緑と赤の点々から数字を当てるやつ」
「あれ、分からん人いるんだね」
「そうそう、分からん人だったわけ」
「それで、地元の高校に入って」
「あの時、なんか穴ばっかり掘ってたよ」
「そうそう。毎日裏庭に穴掘ってから」
「で、大学にいくんだけど、演劇にハマって。照明をやっていて、髭をもじゃもじゃ生やして。ヒッピーみたいな」
「そうそう、大学もいかないで、演劇をして、もう30近くなって。そしたら、お父さんがね『もうお前、沖縄に帰って来て、工場を継ぎなさい』って言ったわけ」
「それで帰って来たんだけど、帰って来た時、本当に服もボロボロで、髭もじゃもじゃでびっくりしたよね」
「だから、大学卒業じゃなくて、高卒よ」
「それで、工場を継いで、出合ったのが、あんたのお母さんさ。ニジヒコの一目惚れだってよ」
「昔は痩せていてかわいかったんだよー」
と、ニジヒコおじさんの妻は、少しぷっくりした横腹の肉をつまみながら言い、台所は笑いに包まれた。

上記の話を聞きながら、私は速やかに年表を作成した。祖父母の家には琉球銀行が送ってくるメモ用紙が大量にあるので、それを利用した。

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1955年 長男として誕生
1962年 小学校入学(神童としてめきめきと頭角をあらわす)
1969年 中2の時に、検査で色盲がわかる
1971年 高校入学(穴を掘る3年間)
1972年 沖縄、日本に復帰する
1973年 東京の大学に進学(髭がもじゃもじゃ・演劇にハマる)
1982年 沖縄に帰ってくる(髭がもじゃもじゃ)工場を継ぐ
1988年 結婚(妻は昔、痩せていた)
1990年 長男誕生

なが~いおつきあい 琉球銀行

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「ていうかさ、穴掘っていたってなに?」
私とイトコは、目を合わせて笑った。
「あんたちね、普通の穴だと思っているでしょ」
と祖母は急に真剣になった。
「毎日、スコップでザクザクほっていたからね。すごい穴だったわけ。あんなのニジヒコじゃないと掘れないよ」
「そう、あれは中々にすごい穴だったよ。ニーニーにしか掘れないような」
と母も言う。なんだ、それは、と思ったが、二人があまりにも神妙な顔でそういうことを言うので、笑うに笑えなくなった。

その日の宴会は、ニジヒコおじさんのピアノで締めくくられた。「ニジヒコさん、ピアノ!」と誰かが言い、「ニジヒコさんがピアノを弾くんだって」と女たちもわらわらと宴会に乱入した。ニジヒコおじさんは、クラッシックを弾く。聞いたことはあるけれど、題名は知らない。ピアノの音色は立派だ。独学で覚えたらしいピアノは、きちんとした音符に収まっておらず、だらららららんと魅力的に音が連なっていく。指は優雅に鍵盤の上を動き、少しもせわしなくない。みんな、うっとり聞き入っている。私はピアノに半分うっとりしながら、ニジヒコおじさんの年表を眺めてみた。

1971年 高校入学(穴を掘る3年間)――ニジヒコ青年がスコップでザクザクほった穴、地質はきっと赤土を基本としたものだろう。地層は8段階まで。1段階目でミミズがたくさん出て、5段階目で土器が出る。ミミズは丁寧によけて作業をし、土器は足で大胆に破壊。それぞれの地層は、ざらざらしたり、つるつるしたり、ぬめぬめしたり、それぞれ触ると違った趣がある。穴を上から眺めると、きちんとした丸には納まっていない。でも、それが余計神童らしいに違いない。

* * *

私は高校生になった。ニジヒコおじさんと同じ地元の高校だ。誰でも行ける高校の、誰でもできる青春は、好きな男の子の噂話をするだけで埋まって行きそうだった。みんなひどく空っぽに見えたし、空っぽなことを誇っているようにも見えた。体育の後の教室に立ち込める、沢山の8×4の臭いを嗅いだ時、みんなサカリがついて嫌だと思ったし、先祖にこづかいをあげつづけなきゃいけないこの街から出て行かなければならないと決意した。黙々と勉強し、図書館で本を読んだ。

独占企業の収益で出た財産があったので、祖父母の家は、他の家よりはるかに大きい。祖父母二人では持て余すからか、2階にある子どもたちの部屋をそのまま保存していた。5人兄弟の中で、ニジヒコおじさんの部屋は当然ながら一番広かった。一面が本棚で、本や楽譜、レコード・漫画などがそろっていた。 壁には鹿の剥製があった。高校生になった私は、ニジヒコおじさんの部屋(正しくは元部屋)の本棚に圧倒されるようになった。あれもあるこれもある、静かでピアノが上手なだけだと思っていたおじさんの本棚は、教養の塊のようで、ぶるるっと震えた。私は神童の神童たりえるところを目の当たりしたのだ。他の人は、たぶん、この本の価値を分かっていない。私だけが、神童を理解できているんだと思う不思議な高揚感があった。

祖父母の家で顔を合わせたとき、「ねぇ、この本かりていいかな」と聞くと、 「うん、良い本だよね」とニジヒコおじさんはニヤリと笑った。母は娘と兄とのやりとりを少し誇らしげにみていて「ニーニーは色々知ってるから、話してみたらおもしろいはずよ」と言った。とはいえ、下手な感想を言い、失望されるのが嫌だったので、私はもじもじした。神童と同じ本を読んでいるだけで、ちょっと誇らしい気持ちになれた。

お盆は毎年やってくる。母は相変わらず「味見の女王」だった。「まったく、すぐ味見するんだから」とおじさんたちはからかう。でも、「私は味見をいっぱいしたから、お腹いっぱい。○○、先にご飯食べてー」と自分より若くて権力の弱い他の女の休憩を促すためにわざとやっている。母はすばらしい。自らピエロを買って出るのだ。母とは違い、私はそういう空気の機微を読み合うことに秀でていない。少なくとも「2代目・味見の女王」にはなれそうにない。いつもどう動けばいいのか、心配になって、居心地が悪くなる。二つ下のいとこは、私よりずっと上手にこなしているように見えた。

高校になって、なぜかおじさんたちは、私を宴会の場所に呼びたがるようになった。
「成績が良いらしいね。教頭先生は俺の友達だからね、よく知ってるよ」
と親戚のおじさんたちは、私をよく褒めた。街は狭いので、だいたい誰かは誰かの友達だ。そして、たしかに私は、高校で一番勉強ができた。みんなが8×4を撒き散らしている間に、勉強しかしてないのだから当然だ。
「勉強はできるんだけど、気は利かないからね、行き遅れるなよ」
と父は言い、「結婚は早い方がいいさ」とみんな笑った。気が利かないことと行き遅れることの因果関係について一々問いただし「難しい年頃」「偏屈」など言われるのはすごく面倒なので、そのままにしていたら、年に数回の鉄板ギャグになりつつあった。大人になったら、会話を潤滑に回すために、つまらないことも言わないといけなのかしら、私はニジヒコおじさんをちらりと見た。みんなと一緒に笑っていなかったので、少し安心した。

台所ではどんどんゴーヤーのてんぷらが揚げられていく。ゴーヤーは真ん中のわたをくりぬいていて、輪切りにされている。キッチンペーパーの上にずらりとならべると、まるでニセモノのお金のようだった。ご先祖さま、私はニジヒコおじさんのように、東京の大学に行きたいです。年に数回のつまらない鉄板ギャグのない場所へ。うーとーとー。と私は心の中で手を合わせた。

* * *

高校3年生になり、私は東京の大学への進学を決めた。親戚一同が喜んだ。みんながお祝いの席を設けてくれた。「東京で彼氏をつくるなよ」と宴会の度におじさんたちは私からかった。「行き遅れるなよ」という鉄板ギャグとともに5回くらいやった。

「ニーニーは東京の大学だったからね、色々聞いたらいいさ」と味見の女王は私に言い、ニジヒコおじさんの隣に私は座らされた。神童の前で下手なことを言うわけにはいかない。私はゴーヤーの天ぷらをすごく食べたいふりをし、相手の出方を伺った。ゴーヤーの天ぷらをはしでつまむ。
「合格祝い、なにか欲しいものはあるね」
とニジヒコおじさんは言った。
「うーん、急に言われてもわかんない」
「高級時計はどうね、お金にこまった時は質屋に流したらいいさ」
高級な時計は、私には必要ないように思えた。
「時計はいらないから、本が欲しい」と私はニジヒコおじさんの本棚で見つけた、寺山修司の詩集をねだった。
「ああ、あれね。実は、東京にいた時、寺山修司と話したことがあって、公園みたいなところで、みんなでぐるーっと円になって体育座りをして、シーツで作った簡単なスクリーンで映画をみて、話は難解でよくわからなかったけど」ニジヒコおじさんの口からはじめて聞く東京の話だった。 ニジヒコおじさんはそこから、東京の話を饒舌に語りはじめた。結構長かった。

もしかして、ニジヒコおじさんは、私に張り合おうとしているのかもしれない。齢を重ねた白い肌や、タバコ臭い口の匂いを、急に疎ましく思った。

「本当はね、工場はたたんで、映画館をつくりたい。小さくてもいい、名作だけを流すわけ」 おじさんは、最後にそうしめくくった。
「でも、そんなの、この街の人は誰も来ないよ、そうでしょう」 と私はムキになって言い返した。 ニジヒコおじさんの顔はいつもより真っ白になった。

そういうことが、ここでは無理だとわかっているから、おじさんはここを出てパイロットになろうとしたんでしょ。毎日、穴をザクザク掘っていたんでしょ。東京に行って、もじゃもじゃと髭をはやしたんでしょ。
私は東京に行くけれど、お金には困ったりしない。だから高級時計はいらない。ニジヒコおじさんみたいに、髭をもじゃもじゃさせたりしないし、大学はサボるかもしれないけれどきちんと卒業する。そして、ちゃんとした就職につく。東京に住んで、高い給料をもらって、美味しいものや楽しいことにたくさんお金を使う。だいたい、質屋なんてもう時代錯誤だし、私は、もう先祖にこづかいをあげるために生きていきたくない。

「大事な本なんだね。じゃぁいいや」とだけ私は言い、ゴーヤーてんぷらを口の中に放りこんだ。冷めていたので、べちょべちょしていた。ゴーヤーの苦味が鼻に抜けた。

「ニジヒコさん、ピアノを弾いたら」と誰かが言いだし、それは私へのはなむけ、ということになった。ニジヒコおじさんは、聞いたことはあるけど、題名は知らないクラッシックを演奏した。だらららんと連なる音は神童めいていたけれど、ひどく白々しい感じがした。

結局、ニジヒコおじさんは私に10万円をくれた。私は母にそのまま渡したので、お金は溶けてどこかに消えた。

* **

私が東京に行く3日前、ニジヒコおじさんは右手の小指を無くした。ニセモノのお金をつくる機械に巻き込まれたからだ。おじさんの緊急手術に親戚一同が病院に集まった。いつまでたっても、尊敬すべき、神童で長男なのだ。手術は無事終わり、ニジヒコおじさんはぐるぐると右手に包帯を巻きながら出てきた。もう私達はあのだららららんとしたピアノを聞くことはできないんだ。みんな、悲痛な表情をしていた。
「大丈夫さ、小指一本くらい大したことないよ」
とニジヒコおじさんは言い、
「仕事はいつでもできるから、やすみなさいね」
「早くよくなってね」
「落ち込まんでよ」
とみんなはそれぞれの言葉で励まして、解散した。

私は母の車に乗り込んで家に帰った。
「ニジヒコおじさんの小指、大変だね」
「そうねぇ、右手の小指が使えないと、はなくそがほじりにくくなるね」
「はなくそって小指でほじるの?」
「ちょうどいい太さじゃない?小指」
言われてみたらそんな気がした。

私は、鼻の穴に二度と差し込まれることのない、ニジヒコおじさんの小指、を想像した。天国の小指は、どんな穴を埋めているんだろうか。そもそも、小指は天国に行けるんだろうか。そういう生死の概念とかあるんだろうか。そんなことはどうだっていい、おじさんが深く深くほった穴に、小指がつっこまれた気がした。そして私は3日後に、東京に行くのだ。

ピアノが弾けなくなったニジヒコおじさんは、毎日、散歩をするようになった。タバコもやめた。白かった肌は日に焼けてどんどん健康的になっていった。もうニジヒコおじさんは神童ではない。普通の中年だ。

(2015/05/20)

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