中野のワインバーに少し遅れて行くと、『1984』の黒いTシャツを着たメガネの男性が座っていた。冬にTシャツを着る人間の大らかさが好きなので嬉しくなった。
ライター仲間のMちゃんが男性を紹介してくれた。その男性のことについて「人当たりはいいが、善人ではない」とMちゃんは評していて、興味を持って会いに行った。
そういえば、「請求書を送るときは、切手セットの中でもかわいくない切手から選ぶ」とMちゃんが言ったのを聞いて、私は彼女のことをすっかり信用している。
男性は、やわらかい関西弁でよくよく喋った。だけど余計なことは言わなかった。善人ではないが、信用できる人だなと思う。
大学時代には落語研究会に入っていたというので、話がよく合った。「算段の平兵衛」をやったことがあるという。
別れた後に、LINEで次のデートの約束をした。「今日は久しぶりに高田文夫先生のお話ができて楽しかったです」と送る。送ったあとに、先生とか付けて気持ち悪いなと反省し、高田文夫の話よりすべき話があったはずだと思う。
大学生の頃に、ひょんなことで高田文夫に会ったことがあり、握手してもらった。薄皮のクリームパンのような、柔らかくてずっしりした手。私はコンビニで薄皮のクリームパンを見るたびに高田文夫を思い出す。薄皮のアンパンでも思い出す。
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次の日、桂米朝の「算段の平兵衛」を聞いてみた。とても面白かった。米朝の落語は、客席に話しかけていない。かといって、無視しているわけでもない。もう少し遠くのほうをぼんやりと見ている。安心して、そのリズムと音程に身を任せられる。人間の素晴らしさもしょうもなさも、同じ重さで並んでいるような気がするのは、母音をはっきりと口にする関西の言葉だからなのか。
間借りしているオフィスから帰る途中、自転車を漕ぎながら、そんなことを思った。ちょうど、ハン・ガンの『すべては白いものたちの』を読み終わったばかりだった。
”私の母国語で白い色を表す言葉に、「ハヤン」と「ヒン」がある。綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。私が書きたかったのは「ヒン」についての本だった。”
(『すべての白いものたちの』「作者の言葉」)
この本は雪のふる場所の言葉で書かれた本だ、と私は思った。雪の寒さや白さについて、よくよく知っている。だから白さに種類がある。寒さで口を開くのも億劫な場所特有の、小さな声が聞こえてくるようだった。それは単にこの前、ハン・ガンがゲストで出ていたK-BOOKフェスティバルの配信で、彼女の喋り方を聞いたからかもしれない。
もう陽も落ちていた。川はぬめぬめと鈍く光って静かだ。それなら東京は灰色の街だと思う。その濃淡に名前がついているのかは、まだわからない。
その日借りていたレンタル自転車は、ペダルを踏むたびにキコキコと間抜けな音がした。そういえばMちゃんに「レンタル自転車で通勤しているので、毎日身体を動かしているよ」と話したら、「電動ですか?」と聞かれ、「電動だよ」と答えたら、「めっちゃ、アシストされている」と言われたことを思いだす。
キコキコキコという音に合わせて考える。自転車に乗ったらそのリズムで言葉が出てきて、散歩をしたらそのリズムで言葉が出てこないものかしら。でもずいぶん前から、私の言葉はリズムと音程を失っていて、ただ冷たくなった言葉をつぎはぎ、なんとか書いているだけだ。
私は私の生まれた土地の、あの潮の香りがする暖かい空気を含んだ、母音がふたつばかり少ない言葉を懐かしく思う。そんな言葉で話したり書いたりするには、ここは寒すぎる気がする。取り戻そうとすればするほど、わざとらしくなり、遠ざかる。
紹介された男性の、やわらかい関西弁をうらやましく思い出した。こうやって、自分が生まれた土地の音程とリズムで、喋り続けられるのはどうしてですか。喋るたびに、遠くなりませんか。偽物の安っぽさに、打ちのめされませんか。そのわざとらしさに、どうやって耐えているんですか。あと、半袖はいくらなんでも寒いでしょう。
マスクにこもった熱い息のせいで、眼鏡が白くくもる。それでも、こぎつづけないと自転車は止まる。街頭の光たちが丸く見える。